mieraさん 25歳
Profile
常陸大宮市出身。茨城県立太田第一高等学校卒業後、昭和大学医学部附属看護専門学校へ進学を機に上京。在学中から都内で音楽活動を開始し、看護師として3年間勤務しつつ、都内でライブ活動を継続。看護師を退職後、1年間の海外留学を経て、本格的に国内での音楽活動を始める。シンガーソングライター。
母の影響で音楽の世界へ
三人姉妹の真ん中のミエラさん。「母は幼い頃、ピアノを習いたくても習える環境になく、その当時叶えられなかった夢を娘の私たちに託したかったのだと話していたのを今でもよく覚えています。」と懐かしがりながらミエラさんが話してくれました。「私がはじめて楽器に触れたのは幼稚園児の時でした。母がピアノを習わせてくれたのをきっかけに人前で自分の歌声や演奏を披露することが大好きになりました。」
中学生ではバンド好きの姉の影響もあり、ELLEGARDENというインディーズバンドと出会い、その当時は彼らの曲に勇気付けられていたとミエラさんは言います。「中学校は自転車通学でした。部活をしていたので夜遅くなることがあって、街灯がなく、ひと気のない田んぼ道を毎日通るのが本当に怖かったんです。なので自転車をこぎながら、大好きなバンドの曲を大声で歌いながら帰っていました(笑)ストレートに心に突き刺さってくる歌詞。メロディーを聴いているうちに、いつのまにか私もいつかそんな曲を作り、自分の音楽で聴く人の背中を押し、『支えられる存在』になりたいと思うようになりました。」
しかし、音楽の道一本で進むことを簡単に決断はできなかったとミエラさんは言います。
まずは一人前の大人として自立するため、看護の道を目指すようになりました。「母が看護師として働いていたこともあり高校生の頃は大学か専門学校へ進学し看護師の資格をとることを最優先に考えてました。しかし、やはり心のどこかでは音楽といった芸術の分野でクリエイティブな仕事がしたいと変わらず夢見ておりました。」
生と死に向き合う中で考えたこと
ずっと大都会にあこがれていたミエラさんは、品川にある看護専門学校へ進学。進学した決め手は学業と部活の両立ができるからだったそう。
「看護学校で部活ができる環境はほとんどないのですが、当時、看護学校に通いながら軽音楽部に入ってます!という方を、SNSでたまたま見つけて思わず連絡を取ったんです。『ここの看護学校は大学と付属しているから、部活も入れるよ!』と教えてもらい『ここしかない!』と思ったんです。実際に試験当日、キャンパスに足を運んだ際、品川の都会な街並みに魅了され『私もこんな大都会で自分の音楽の拠点をまたひとつ築きたい!』と思い入学を決意しました。
そして3年間看護の勉強、念願だったバンド活動を続けていったミエラさん。卒業後、念願の看護師になってからの最初の配属先は手術室だったそう。そこでは職務の忙しさで音楽という夢への道を半ば想いをを断ちつつも「毎日、たくさんの患者さんが運ばれ、時には自分と同年代の方のオペなど、生死が常に隣り合う現場で世代問わず多くの人の死と向き合う中で、『わたしもいつ死が訪れるか分からない』と、自分の死について考えさせられ、自分の原点であった音楽への道に正直に進むことを決意しました。」
やりたいことはとことんチャレンジ!
現在ミエラさんは、常陸大宮市在住。ボイスレッスンやレコーディングの度に都内へ通っています。大自然に囲まれている常陸大宮市での生活では、よくメロディーが生まれるとミエラさんは言います。「日常生活で出会った言葉やその単語自体に深い意味を感じたり、この言葉いいなと思った時に、その言葉から連想される自分の経験やその時の感情を掘り出し、歌詞を作成しているんです。」
音楽の道へ進むという決断をし、語学留学を経て本格的に音楽活動を始めたミエラさん。これから夢に向かう人へ向けて、メッセージをお願いしました。
「音楽の世界を目指す最中は夢だけを見がちな一方、楽しいことばかりではなく、良くも悪くもいばらの道だと思います。今の時間を大切に、未来を恐れず今しかできないこと、やりたいことにもどんどんチャレンジしてください。悔いのないように、自分の意志でそのたった一度きりの人生の物語を創り上げていって下さい!」
音楽という好きなことをずっと好きでい続けるミエラさんは、とてもキラキラしていました。
(茨女レポーター:石川 蘭)