ミヤタユキさん 31歳
Profile
茨城県水戸市出身。
茨城大学教育学部附属中学校、茨城県立水戸第二高等学校、多摩美術大学情報デザイン学科卒業。東京芸術大学大学院美術研究科先端芸術表現専攻修了。現在、「KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭」 キュレトリアルアシスタントとしても活動。
ーQ.アートに興味を持ったきっかけを教えてください。
ーA.私は、幼い頃に水戸芸術館の近くで育ちました。芸術館は、私にとって一番近い〝公園”で、生活の中に芸術があることが日常でした。
小学校4年生の時に引越しをして、水戸芸術館からは少し遠ざかりましたが、両親と一緒にモノを作ったり絵を描いたりすることは日常でした。家中のものを自由に使わせてくれて、ビデオカメラで、特撮やドラマを撮って遊んだりしていました。友達と一緒になって、家中のいろんなものを壊しました(笑)。
高校生になると、何かを表現しなければいけない、と常に思っていました。
そんな時、水戸芸術館の「高校生ウィーク」に出会いました。今も続いているプログラムですが、当時は、アニメーションを作ったり、ポスターを作ったり、大学生と一緒にチームを作って自由な表現活動をしていました。美大志望の友人が増え、私も美大に入学。卒業後は、作家活動をしながら森美術館のミュージアムショップで働いていました。
ーQ.なぜ、一度東京に就職したあと、茨城に戻って来たのですか?。
ーA.震災がきっかけです。
当時東京にいた私は、混乱する街や人の中で、違和感と罪悪感の渦に溺れそうでした。被災地であるはずの茨城に連絡を取るたび、落ち着いた対応とコミュニティの強さに驚きました。それまで、創造力の最先端は東京や海外にあると思い込んでいた私には、衝撃の出来事でした。そして「創造的な出来事は、小さな地域やコミュニティにこそあるのではないか」と思い始めました。当時は、〝東京から離れること=芸術の仕事を諦めること”と思っていたので、一大決心でした。人生のベクトルが、180度変わったような気分でした。
ーQ.茨城で仕事をする中で感じたことは?
ーA.震災後、茨城に戻って最初に携わった仕事は、観光事業の企画・運営でした。茨城の各地で、毎日のように面白すぎる場所や人に出会い続けました。
2年くらい関わったのですが、途中で〝アートのど真ん中”に立っている!と思える瞬間があって。水戸芸術館を公園として過ごした、幼少期の感覚に似ていました。あんなに何もないと思っていた茨城が、ほんの少し視点を変えるだけで、全てが衝撃的なくらい面白くなってしまったんです。生活の中にこそ、真の芸術があることを思い出しました。この感覚を探求したいと思い、27歳の時に東京芸術大学大学院に入りました。
ーQ.地域おこし協力隊の活動を通して感じたことはどんなことですか?
ーA.地域おこし協力隊の一環で、「アーティスト・イン・レジデンス」が開始され、ディレクターとして常陸太田市に移住しました。行政が芸術を扱うことの難しさも感じましたし、既に存在する出来事が、視点や論点を変えただけで、芸術になる瞬間にたくさん立ち会いました。
〝地域おこし”という言葉が苦手なのは、協力隊に入る前も入ってからも今も変わりません。私には、地域にもともとある面白いことを、ちょっと違う視点から本気で面白がって楽しむことしかできないなと思っています。
ーQ.今はどんなお仕事をされているのですか?
ーA.常陸太田市水府地区に住みながら、竜神峡の〝こいのぼり祭り”に使用されたコイノボリの頭からシッポまでをアートする「水府コイノボリプロジェクト」を地域の皆さんと展開しています。
エコバックや服、手差し、クッションなど、毎月新作を生み出しています。地域のお母さんたちの手作りの品を芸術作品として展示する「井戸端アート」も活動の一つです。
また、9月17日からはじまる『KENPOKU ART 2016 茨城県北芸術祭』のキュレトリアルアシスタントをしています。大まかに言うと、出展予定の国内外のアーティストの作品を、地域のどこにどう展示すべきか、地域の皆さんに手伝っていただきながら、整理し調整する仕事です。と言ってもひとことで表現するのは難しく、業務内容は多岐にわたります。今までの仕事の全てが活かされていると感じています。
ーQ.今後の野望を教えてください。
ーA.抽象的ですが、世代や分野の垣根をどんどん越えて、誰もが誰にでも何にでもなれる空間を作れたらなと思っています。
いつも周りの人達に恵まれていて、世代を超えた繋がりが私の感覚を日々広げています。これまで、次々と様々なことが舞い込んできました。言葉にすると分類されてしまう仕事や出来事も、全ては繋がっているんだなと体感しています。